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| ペンダントトップ。 |

十字架のペンダントトップ。
どうしても一つ欲しくて探しました。 地元のシルバー専門店にて購入。
自分の信仰を意識するのに肌身離さず着用したいです。
ご無沙汰日記でした〜。
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| 感謝。 |
Kikoさん!Q-CHAN牧師さん!コメントありがとうございます!
ただ今Q-CHAN牧師さんからご紹介いただいたサイトで礼拝に参加しています!
本当は直接教会に出向いた方が良いんでしょうけどね。 時間の無い人にはとても良い手段だと思います。
先日このブログを通じて大阪キリストチャペルの牧師さんからメールを頂きました。 実は什一献金を調べているときにこの教会を発見し、HPをブックマークしていたんですが、そこの牧師さんからメールが届いたのでびっくりしました!
その松田牧師先生から頂いたメールにあった、「他の人と同じでなくて良い、お互いアウトローでいきましょう!」 という言葉にとても感謝しました。
そうですね。 私には私の道が与えられているので、信じる道を真っ直ぐ歩いていきたいと思います。
私は「夢(眠っているときに見る)」というのは、その時期に考えていること、思っていること、それから深層意識が現すものであり、つまるところ願望が夢になって見えると思っています。 ああなったら良いなーと考えていればそういう夢を見ますし、印象の強い出来事に遭えばそれが夢になって現れます。
だから夢から覚めたあとは、あれを考えていたからあんな夢を見たんだな〜と分析したりしています。
ところが、たまに分析が出来ないような夢を見ることがあります。 空を飛んだりとか、トンネルの中を出口に向かったりとか。
これらは夢占いでは脱出とか希望とか、それぞれ説明がなされています。
私は解らないものは徹底的に分析・研究したくなる性質なので、色々調べて考えます。
先日見た夢は、また奇妙なものでした。
私は空を飛び雲に向かい、数人の見知らぬ人と一抱えの雲を囲みます。 私がその雲に両腕をかざすと、雲は銀色の杯(大きな花瓶ほどの大きさで、穴は開いておらず、緩やかな窪みがありました)に変わり、私の胸に収まりました。
周囲の人はそれが杯だと言っていました。 杯はとても重く、流動的にカタチが変化しますが、常に杯のカタチは保っています。 私はその杯を胸に抱いたまま、ゆっくりと下に下りて行きました・・
夢はここで終わりです。
後で調べたところ、「銀」には「幸運」という暗示があるそうです。 「雲」には「転機」という暗示が。 「杯」に関しては不明です。
これを考えるに、私が今考えている事業、金融市場で運用した資金を経済弱者救済・支援に使おうという思いが見せた夢だと思えます。 来月あたりからPCのモニターとにらめっこの状態から脱出できるほどに運用が軌道に乗ると見込んでいます。 その後は空いた時間にボランティアに参加しながら、参加した団体の内情を調査して、どの程度の資金を必要としているかを明確にし、適切な資金を寄付しようと考えています。
「銀の杯」の夢は、きっとこの事業を後押ししてくれていると信じたいです。
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| またまたご無沙汰ですが。 |
どうも、長らくご無沙汰しております。
最近は教会に行く気もしなくなり、次はどう動くかを考えているところです。 そして、
これを読んでいます。
賛否両論あるでしょうけれどね、目を閉じずに見るべきだと思います。 知った上で、判断を下せば良い。
私たちが得られる情報はソースがどこであれ、すべてが正しいとは限りません。 意図的に曲げられたもの、曲解されたもの、無意識に曲げられたもの等、誰にもすべてを正しく知ることは出来ないのです。
だから多くの情報が必要です。 私は納得するまで知り尽くさないと、判断ミスのリスクを負うことが出来ない臆病者です。
じっくりと自分の信仰を構築していくことでしょう。 何十年かかっても無理でしょうが、それはそれで良いと思っています。
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| トマスの福音書。 |
Jackさん!コメントありがとうございます!
今日の日記は人によっては不快に思う内容かもしれません。 それを了解のうえで読んでください・・
日本では100万人の小さなパイを、各教会が奪い合っているように感じられます。 日本で新しいパイを焼けないのは、きっと献金のせいだと思うんですよ。
宗教にまっさらな人がキリスト教に興味があるからと、ぶらり教会に入ったらお金の話ばかりだったとなると、「これってカルト?」と思っちゃいますよね。 さらに牧師さんのお金の話に周りが涙して「アーメン!」なんて言ってたら、「ヤバイ!洗脳されちまう!」及び腰になります。
カルトでない宗教は、無欲・清貧であるものと普通の人は考えているはずです。 教えは確かにその通りなのですが、教える方が無欲・清貧なのかどうかは疑ってしまいます。 無欲ならば、教会を大きくしたり、会員を増やそうだなんて思いつかないはずです。 「信者と書いて、儲と書く」 信者=儲 これ、ある週刊誌の中刷りですけど、名言です。
いろいろ調べてみると、「札束牧師」とか、お金に狂った牧師や教会がかなりあるようです。
厳粛な雰囲気の淀橋教会にはじめて行った時、説教の内容が世間の拝金主義の風潮を諌めるものでしたが、話が終わったあとに、「では神に捧げものを」と献金タイム。 え?いまの話はなんだったの? って思いました。 礼拝プログラムに献金の時間があるってのも可笑しなはなし。 それがスタンダードなんでしょうけど、外部から見たら変です。
教会でお金の話を聞かない日がないのは何故?
イエス・キリストはおっしゃられました。 「薪を割れば、そこに私はいる。石をどければ、またそこに私はいる」
神様は教会にいるのではなく、この世界にいるのだと思います。 教会は信仰を深めるところ、確かめ合うところ。
理想の教会が見つかるまで、私は彷徨い続けます。
いや、もしくは自分で作っちゃいます。(笑)
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| 十一献金か〜。 |
今日はホープチャーチの礼拝に行ってきました。
最近では、 「私は皆の信仰、あるいはその仕方とは違うかもしれない」 「私は私の道に導かれ、どこかに帰結するだろう」
こう考え、無理に周りに合わせる必要はないだろう、と思うようになりました。
私は変人ですから!!
変わり者、そう自覚しています。
今日はホープチャーチで牧師さんが高らかに、
「ホープチャーチは十一献金の教会です!!」 「十分の一、いや、もっとです!!」 「皆さんの力でホープチャーチをもっと大きくしましょう!!」
と、言われ、私の心はノックダウン。
帰ってきてから、ふて寝をしてました・・
通貨の取引をしている私がいうのもなんなんですが、一週間のうちに「お金」という言葉を耳にするのは、ほぼ教会だけ。 通貨取引による資金の運用は将来の夢実現のための、あと夢までこれくらい、というバロメータのようなものなんです。 お金としては考えていません。
世界で一番お金とは無縁だと思っていた教会で、あれだけ「お金」を連呼されると幻滅してしまいます。 まぁ、私だけなんでしょうけどね。
来週からはまた教会めぐりです。
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